←前のページへ 次のページへ→
〜 国鉄郡山操車場
−自走貨車への追憶− 〜


交通システム工学科2年 4092番 T.H

1. 半世紀前の痕跡

 東京駅より東北本線を北上し約220km、安積永盛を過ぎてさあもうすぐ郡山となるあたりで、不思議な光景に出合う。線路に沿って設けられた必要以上に広い道路橋、周辺とは異なる新しく見える区画とそこにそびえる特異な建物、並行道路との間にある草の生い茂った長方形の区画、やたらと架橋位置の寄った下路式アーチ橋、そして不自然にカーブした郡山貨物ターミナル駅。これらを辿っていくと、やがて葉っぱのような一つの地形が頭の中に浮かんでくる。そう、その形状こそ嘗て「東洋一」とも謳われた日本国有鉄道の巨大施設、郡山操車場の跡である。約半世紀前、この地には数々の最先端技術を投入して作られたあまりにも壮大な鉄道施設があった。


2. 郡山操車場建設計画の経緯

 東北本線の貨物輸送は元来、青森・長町・大宮・田端にある各操車場等を軸として行われてきた。操車場とは列車の組成や分解・入換を行うための場所であり、ヤードとも言う。しかし貨物輸送量の増加に伴い、東京地区の大宮・田端・新鶴見各操車場では取り扱いが限度に達し、列車の一時抑制の事態がたびたび発生していた。一方、それらの操車場は大きな増強もできないため、これまでの輸送体系での対応が難しくなっており、東京地区通過となる輸送のバイパス系ヤードを整備することとなった。そこで、分岐も多く今後の物流増加が期待でき、なおかつ大宮・田端・新鶴見各操車場のサブ的機能も備えるという条件と、青森・長町の東北二大操車場の位置関係からも郡山にヤードを建設することが適当とされた。この計画は1960(昭和35)年ごろにスタート、1963(昭和38)年には郡山駅南に30万平方メートルの用地を買収、工事に着手した。
 一方、集結列車の組成を行う貨物操車場は最も労働集約的な作業の職場で、能率の向上と障害事故防止の観点からその近代化が必要であった。なにせよ1964(昭和39)年に国鉄の経営は赤字に転落、それに操車場での列車組成・車両の入換えでは、各貨車に応じて入換を行うため多大な時間が必要だったほか、ハンプと呼ばれる坂を利用し貨車を解放、そこに構内掛が飛び乗り貨車にブレーキをかけるという危険極まりない作業を行わなければならなかった。これに対処するため、1937(昭和12)年から新鶴見操車場でカーリターダと呼ばれる地上設置型の車両減速器の試用・開発が進められており、戦争を跨いだ後実用化されていた。これも利用し1950年代半ばから鉄道技術研究所では最新の電子計算機と自動制御技術による操車場の自動化システムの研究が進められていた。これに対し電子技術調査委員会は、自動化システムの実現の目途がついたとして、1965(昭和40)年に当時建設が進んでいた郡山操車場に自動化計画を追加した。
ワム70000のワム75596・那珂川清流鉄道保存会にて

写真1 ワム70000のワム75596・那珂川清流鉄道保存会にて
郡山操車場では主にこのような二軸貨車などの車扱貨物の仕訳を行っていた。


3. 郡山操車場建設と完成

 着工から2年経った1965(昭和40)年のうちに、下り仕訳線・ハンプとその試験線3本は完成した。10月からは日取扱能力800両で一部仕訳作業を始めており、さらに1966(昭和41)年には機械設備の一部としてリターダの試作が完成、それにより1月から自動化ヤードのテストが始まった。また夏には電子計算機・空圧式カーリターダ・レーダースピードメータ・車軸検知器など自動化設備がほぼ完成したため、8月16日から約半年間に渡る総合試験を行った。その翌年には部分使用を開始し、さらにその1年後の1968(昭和43)年9月、郡山操車場はついにその全面開業を果たした。予定していた1月より8ヶ月ずれ込んだ開業であった。
 郡山操車場は本線の上下線の間に操車場を配置した、だき込み式のハンプ自動化ヤードで、コンピューターによる貨車の速度制御・情報処理を行う世界初の操車場であった。貨車の速度制御にはカーリターダを点制御するターゲットシューティング方式を採用。開業当初は日取扱能力2650両であったが、後に操車数の増加等により輸送が混乱したため、1969(昭和44)年10月までに発着線2線・方向別仕訳線2線・駅別仕訳線の増強等を行い、日取扱能力4300両まで拡大した。面積32万平方メートル・軌道延長51キロメートルの巨大な施設で、総工費は当時で46億円とも言われる。自動化の効果として、操車場の作業員は従来の3分の1、経費は年間7000万節約できるとされた。その規模と設備ゆえに、郡山操車場は青森・長町とともに東北三大操車場に数えられただけでなく、東洋一の操車場としてその名を轟かせた。また、鉄道学校の生徒や操車場の関係者など多くの視察が世界中から相次ぎ、操車場近代化のモデルケースとしての役割を果たした。
郡山操車場概略図

図1 郡山操車場概略図
最大50〜60本の線路が整然と並んでいた。


4. 郡山操車場開設後の操車場

 郡山操車場の開設後、これに続いて高崎・塩浜・新南陽・武蔵野・北上等の各自動化操車場が誕生し、操車場はさらなる発展を見せるかに思われた。しかし鉄道貨物輸送は操車場の対応する小口扱や車扱などの操車場継送方式よりも、コンテナやタンク車で行う直行型輸送方式ほうが鉄道貨物の長所を生かすことができたうえ、モータリゼーションやカーフェリーの波にも推され、操車場継送方式は圧倒的な劣勢となっていた。そのため自動化が見当されていた既存の吹田などの大規模操車場も直行型輸送体系へとシフトし自動化は中断、さらに武蔵野操車場の過剰投資が国会で追及されたことさえあった。
 郡山もそれは例外ではなく、ダイヤ改正ごとに経由する貨物は削減され1971(昭和46)年時点で日取扱量数1800両と最大能力の4300両には遠く及んでいなかった。加えて1977(昭和52)年には郡山操車場東方の買収した用地18万平方メートルに直行型輸送方式に重点を置いた郡山貨物ターミナルが周辺7駅の貨物駅を集約する形で部分開業、翌年さらに周辺10駅を集約し年取扱規模50万tで全面開業した。
 このような操車場継送方式の予想外の低落に対し、1982(昭和57)年10月貨物駅800駅・操車場100体制の合理化施策が実施された。さらに2年後の1984(昭和59)年2月、操車場を利用した集約輸送は全廃されることになった。全ての貨物操車場はその役目を終え、そのとき郡山操車場のコンピューターも電源を落としたのである。 役割を終えてしばらく経った1994(平成4)年、東北本線の上下線と貨物ターミナルの発着線を貨物ターミナルの荷役ホーム側にまとめる工事で、ハンプや仕訳線などの設備が姿を消した。コンピューターや監視所・輸送本部等が入っていた郡山操車場の心臓部とも言えるコントロールタワーは2007(平成19)年まで残されていたが、老朽化のため解体され今はそこに草が繁茂するだけである。
 現在跡地には多目的施設のビッグパレット、また2011年(平成23)年以降は仮設住宅などが建ち、郡山操車場を偲ばせる物は僅かな遺構があるのみである。しかしそこで培われた技術は、東海道・山陽新幹線の列車運行管理システム・COMTRAC開発等に活用、延いて東京圏輸送管理システム・ATOSなどへ受け継がれ、その後の鉄道のシステム化に大きく貢献している。郡山貨物ターミナル駅もその血をひいてか、東北で初めて着発線荷役方式を採用するなど何処か先進的である。僅かに20年も運用されなかった国鉄郡山操車場であるが、その存在は強烈なものであったように私は思う。


参考文献
  • 日本貨物鉄道株式会社編:「自動化操車場の建設」、『写真で見る貨物鉄道百三十年』、交通新聞サービス、pp.164-166、2007年10月
  • 太田 幸夫:『鉄道による貨物輸送の変遷−操車場配線回顧−』、富士コンテム、pp.1-21 pp.67-85、2010年4月
  • 川島 令三:「貴重な取材資料で再現する配線図今昔」、『【図説】日本の鉄道 東北ライン全線・全駅・全配線第5巻福島エリア』、講談社、pp64-67、2014年11月
  • 大山 正:「ヤード自動化システムの誕生と実用」、『あの日から30年 59-2ダイヤ改正 国鉄貨物列車大変革期』、イカロス出版、pp.106-115、2015年2月


− 49 −

←前のページへ ↑このページのトップへ↑ 次のページへ→